好きなもの

Over the rainbow - What a wonderful world / Israel Kamakawiwoʻole

こんな時こそ、その2。
これは絶品です。
「虹の彼方に」が「この素晴らしき世界」にすっと変わっていく。
着想の見事さに脱帽です。
それに、全体を貫く暖かさ。ありがとう、IZ!

YouTubeにあるOfficialビデオは2曲別々になっていて着想の素晴らしさが伝わりにくいので、あえてこれ↑にしました。歌詞もわかりやすいしね。

せっかくだからOfficialの方も貼っておきましょう。

・虹の彼方に

・この素晴らしき世界

あったかいです。

What a wonderful world / Louis Armstrong

こんな時こそ。
ちなみにこの曲の最初のフレーズって、考えてみたら「きらきら星」ですよね。
よくできてるなあ。

震災復興と音楽の力

ブログの更新が滞っているうちに、日本はえらいことになった。
東日本大震災。
まだその余波は続いている。

震災といえば、添田唖蝉坊の『復興節』を思い出す。
大正12年、関東大震災の焼け跡から生まれた、いわゆる壮士演歌の一つである。
息子の添田知道(さつき)が書き残した誕生にまつわるエピソードは心を打つ。

拙速の唄本が刷れて、私も糊口のこともあるので、近くへ演歌に出てみたときのことだ。日暮里の焼亡をのがれた地区とはいえ、夜は暗く死んだように沈みかえっている。そんな中で歌声をあげたりしたら、袋だたきにでもあうのではないか、そんな不安があった。とある横丁でうたいはじめると、忽ち、暗い家々からとび出してきた人々にかこまれた。しかしそれは、不安とは逆な、熱心に聞き入る人々であった。勢い歌う方にも身が入る。大歓迎で、持って出た百部の唄本がすぐに売切れて、妙な拍子抜けをした。
そして、どんな深沈の中でも、人々は音をもとめている、ということを知った。音。それは生命の律動。律動のない生命はない。律動の感応が、生命をおどらせる、ということだ。その音の質なり現れ方への考察はまた別の話として、根源的なところでこれを知った。人々は食の飢えもあるが、音にも飢えていたのだ。
                  (添田知道(さつき)『演歌の明治大正史』より)

どんな時でも人は音楽を求めている。こんな時だからこそ、音楽の律動が生命をおどらせる。音楽文化の末端にかかわるものとして、思い出すたびに心強くなるエピソードである。

『復興節』の詞はこんな風だ。

家は焼けても 江戸っ子の
意気は消えない見ておくれ アラマ オヤマ
忽ち並んだ バラックに
夜は寝ながらお月さま眺めて エーゾエーゾ
帝都復興 エーゾエーゾ

嬶が亭主に言うやうは
お前さんしっかりしておくれ アラマ オヤマ
今川焼さへ復興焼と
改名してるぢゃないかお前さんもしっかりして エーゾエーゾ
亭主復興 エーゾエーゾ

困難の時にもユーモアを忘れない。したたかな強さに満ちている。

時は流れて平成7年、阪神大震災。ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」の人たちが日頃のエレキ楽器ではなくアコースティックな楽器を携えてチンドン隊を作り、「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」として被災地でコンサートを行った。その時にも『復興節』が歌われた。そちらの歌詞は、引用すると何かとさしさわりがあるかもしれないので、Youtubeの映像を貼っておく(これはさしさわりないのか?)。

さて今回の大地震、町に『復興節』が響くのはいつだろうか。

ケクラン「BACHの名による音楽の捧げもの」の映像

オランダの放送局のサイトにケクランCharles Koechlin (1867-1950)の「BACHの名による音楽の捧げもの」の映像がある。オランダ放送フィル、指揮は Ed Spanjaard。2009年2月、アムステルダム・コンセルトヘボウでの演奏。

http://player.omroep.nl/?aflid=8880982

3本のサックスにピアノ、オンド・マルトノ、オルガンまで含む大オーケストラを駆使し、優れた理論家として知られるその作曲技法の粋を尽くした1940年代の力作。ケクランといえば「ジャングルブック」の連作や美しい「星空の方へ」などが知られているが、ああいった作品ではどうしても意識が標題に引っ張られがち。だがこの曲では、もっと純粋にケクランの音の世界に浸ることができる。これまでもCDやナクソスの配信で音は聞けたが、やはり映像を伴うと「何が起こっているのか」がよくわかってありがたい。

フランス近代音楽の系譜をたどるとき、ドビュッシー、ラヴェルの次にはいわゆる6人組あたりを挟んでメシアン、デュティユーへとつなぐ理解が一般的だろう。だが、6人組のかわりにこの曲に聴けるような「晩年のケクラン」をはめ込んでみると、今日の「スペクトル楽派」あたりまで続く「ソノリテの音楽」としてのフランス音楽の流れがうまくつながって見えてくるように思う。

ゴリホフ「マルコ受難曲」のビデオ

オズバルド・ゴリホフ(ゴリジョフ)「マルコ受難曲」の動画をオランダの放送局のサイトで見つけた(無料)。
http://player.omroep.nl/?aflID=7488133

2008年の「オランダ・フェスティヴァル」で収録されたもの。指揮はロバート・スパーノ。

曲は紀元2000年を記念してヘルムート・リリンクとシュトゥットガルト・バッハ・アカデミーが4人の作曲家たちに委嘱した受難曲のひとつ(他の3人はタン・ドゥン、グバイドゥリーナ、リーム)。前にCDで聴いて、南米出身の東欧系ユダヤ人ゴリホフらしいサウンド、とくに民衆(合唱)部分でのバリバリのラテン音楽ぶりに興味を惹かれていたのだが、ビデオだとミュージシャンたちの顔やずらりと並んだラテン・パーカッションを見るだけで場面設定そのものを南米に移しているということがよく分かるし、シアターピース的な要素が強いこの作品の本来の姿が楽しめる。

演奏は多少粗さが見られるが、ドキュメントとしてはとても貴重。

今調べてみたら、このビデオ、実は今年グラモフォンから出たCDのオマケにDVDとして付いてるらしい(CDの演奏者は別)。日本盤はまだ出てないようだが、ぜひ日本語字幕付きで出してもらいたい。

ベリオのシンフォニア

東響と東混でベリオのシンフォニアを聴いた。指揮は大友直人。プログラム後半の「英雄の生涯」も含めて、熱演、力演、感銘深かった。
シンフォニアの目玉というべき第3楽章では、やや響きがダンゴ状態で下敷きのマーラーが埋もれがちになり、音楽の見通しがちょっと悪くなってしまったが、その後に続いた終楽章は緊張度の高い充実した演奏だった。

讃えるべきは、まず、東混の八重唱の面々。声楽アンサンブル協奏曲といってもよい難曲の難パートを、すっかり自家薬籠中のものとしてこなしている感じ。PAのバランスがちょっと気になるところもあったのだが、見事でした。

東響にも喝采。前からうまいオーケストラだと思っていたけれど、改めて再認識しました。

それにしても、コンマスの大谷康子さんはすごい。ベリオでもシュトラウスでも、それこそ協奏曲なみのソロパートで燃えるようなヴィルトゥオジティを発揮し、ストレートな大友の音楽に生命の輝きを添えてくれる。残念なのはベリオのときヴァイオリン・ソロにもPAが効いていて、私の席が下手の端という要因も大きいのだろうが、視覚的に左側で演奏している音が右のスピーカーから(も)聞こえてくるのがどうにも違和感を拭えなかったこと。ミキシングでもうちょっと配慮できたはずだと思うのだが。それを除けば、今日の演奏会の音楽的満足は相当程度彼女のヴァイオリンに負っていたように思う。財産ですね。

cité de la musique live

パリの音楽センターCité de la Musiqueが、コンサートの映像を無料で配信してくれている。
運営を共にするサル・プレイエルでのコンサートも含まれ、パリ管弦楽団やフランス放送フィル、アンサンブル・アンテルコンテンポランなど、ここを本拠に活動する演奏団体のものが中心だが、それだけでなくポピュラー音楽も世界音楽も、関連するものは何でも掲載されている。過去の映像の大半は抜粋しか見られないが、演奏会全体を楽しめるものもかなりある。最近リニューアルして使いやすくなった。
http://www.citedelamusiquelive.tv/
パーヴォ・ヤルヴィとパリ管のシベリウス(しかも「クレルヴォ」!)、アーノンクールとヨーロッパ室内管のシューベルトにハイドン、チッコリーニのサン=サーンスとプーランク、などなど。ロト率いるレ・シエクルがリュリとR.シュトラウスの「町人貴族」を(モリエールの戯曲の抜粋まで挟みながら)並べてみせた解説付きコンサートは企画も演奏も極上だし、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターがブロドスキー四重奏団と一緒にグレインジャーやレスピーギそれにエルヴィス・コステロを歌ってる映像も素晴らしい。
これがみんな無料なんだから、もうほんとに快挙。
ただし、各動画には視聴できる期限が書かれているので、注意も必要。今のところどれも来年1月15日まで。その後は一斉に見られなくなる――かどうかは過ぎてみないとわからないけど、まあ広い意味で実験中ということかもしれない。
音楽系動画配信サイトは増えているが、一方に多額の課金をかけるサイトがあり、他方にこうした無料のサイトもある。時代が大きく変わっていく、今はそのただ中なのだろう。

メッツマッハーのハルトマンと《悲愴》

 メッツマッハーがハルトマンの交響曲第6番をやるというのでパルテノン多摩まで聴きに行ったら、新日フィルが期待以上の熱演、しかもチャイコの悲愴も思いがけない拾いものだったので(10月31日)、急遽サントリーホールの方も聴くことにした(11月2日)。こちらも良い演奏だった。
 ハルトマンの6番を生で聴くのは、1981年のライトナーN響以来。当時のN響は、ともすれば救いようのないくらい気の抜けた演奏をすることがあったが、さすがにこの時は必死になってライトナーの棒に食らいつき、迫力のある演奏を聞かせてくれた。それから30年近く経って、ようやく再び巡り合えた訳だ。
 新日フィルは、昔のN響よりも一層緊張度の高い、それでいて瞬間瞬間の幻想的で叙情的な響きにも欠けていない、良い演奏を聞かせてくれた。多少のアラもなくはなかったが、それ以上によくあの難曲をこなしたものだと感心する。特にヴィオラとファゴットの健闘を讃えたい。
 それにしても、最初にブラームスの「悲劇的序曲」、真ん中にハルトマンを挟んで最後にチャイコフスキーの「悲愴」という組み合わせには、感心させられた。音楽自体の取り合わせもさりながら、表題を持たないハルトマンの6番が「悲劇的」と「悲愴」の間に置かれることで、曲を知らない人にも作品の性格がおのずと浮き彫りになるからだ。さすがメッツマッハー。
 さすがといえば、オケの配置。ヴァイオリン2部を固めるのではなく、第1ヴァイオリンは下手(客席から見て左側)、第2ヴァイオリンは上手(右側)に配する、いわゆる両翼配置(対向配置)をとっているのだ(ちなみに第1ヴァイオリンの隣がチェロ、その後ろにコンバス。つまり低弦の音は普段と違って下手側から聞こえてくる)。この配置は20世紀初頭まで一般的だったが、その後弦楽器を高音から低音へと順に並べるストコフスキー流のやり方が主流になった(拙稿「オーケストラの楽器の並べ方」参照)。近年、モーツァルトなどの演奏の際にこの配置をとることは増えてきているが、19世紀後半以降のレパートリーについてはほとんど顧みられることがない。
 だが、この両翼配置は、チャイコフスキーの「悲愴」には本来絶対必要なものなのだ。「悲愴」の終楽章は、弦楽器の悲痛な響きで始まるが、ここでチャイコフスキーは、旋律を一音ずつ、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンで交互に受け持たせる。Photo_2 

なぜそんなことをするかといえば、一つにはこの旋律を素直に流れよく演奏してもらいたくない、むしろ落ち着きの悪い雰囲気を出したいからであり、もう一つは、音像が1音ずつ左右に動くことで、聴き手に心の乱れを感じ取らせたいからである。「悲愴」の極みである絶望の想い、「俺はもうダメだ~っ」と頭を左右に振り乱す悲痛な心情を聴き手に伝えるために、チャイコフスキーはメロディーを左右のヴァイオリンに交互に演奏させるという、楽譜を書く上でも演奏する上でも面倒なことをわざわざやったのである。ところが現代では、この曲が両翼配置で演奏されることはめったにない。演奏会でも、また幾つものヴィデオ映像を見ても、たいていはストコフスキー流の現代的な配置をとっている。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが固まって同じ方向から聞こえてくるから、チャイコフスキーの意図は聴き手にちゃんと伝わらない。ヤンソンスもフェドセーエフも、小澤もデュトワも、みんな解ってない。おそらくアーノンクールやノリントンあたりが「悲愴」を演奏すればちゃんとやってくれるのだろうが、彼らはこの曲をとりあげない。誰かやってくれないものか、というのが長年の願いだった。それがようやくかなったのである。さすがメッツマッハー。
 パルテノン多摩では、座席が下手の端に近かったため、せっかくの両翼配置の効果を十分に感じられなかった。わざわざもう一度サントリーに出向いたのは、それをもうちょっと中央寄りの席で確かめたかったからでもあった。残念ながら比較的中央に近いところとはいえ1階席の一番奥で、音像が中央にまとまりがちだったため今度も期待したほどの効果は感じられなかったというのが正直なところだが(ホールの響きが良すぎるのだ)、おそらく1階席中央付近で聞いている人たちには十分興味深い効果が感じられたのではないかと思う。メッツマッハーの特例ということでなく、この配置による「悲愴」の演奏がもっと普及すればよいのだが。
 配置のことばかり書いたが、この「悲愴」は演奏の中身も素晴らしかった。ハルトマンの迫力がすごかっただけに、演奏会としては尻つぼみになるのではないかと心配したのだが、まったくの杞憂。オーケストラの人たちもハルトマンよりのびのびして(笑)、でもきっちりと締めるべきところは締め、メリハリの効いた「悲愴」が実現していた。
 30年ぶりのハルトマンと貴重な「悲愴」体験をもたらしてくれた、メッツマッハーと新日フィルに感謝。メッツマッハーは来年10月にもう一度来るみたいだから、その時にもまたハルトマン、できれば今度は1番3番4番あたりをやってもらえると嬉しいなあ。

Kernis: Colored Field - Musica Celestis - Air (2001)

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ノルウェーを、というより現代のチェロ界を代表する名手トルルス・モルクによるカーニスの作品集。大植英次とミネソタ管弦楽団のバックも素晴らしい。

Colered Field: Concerto for cello and orchestra
  1. Colored Field 
  2. Pandora Dance 
  3. Hymns and Tablets 
4. Musica Celestis
5. Air

Truls Mørk  (Vc)
Eiji Oue (Cond)
Minnesota Orchestra
(Virgin Classics)

アルバム・タイトルの《カラード・フィールド》(1-3)は、もともとはイングリッシュ・ホルンの協奏曲として1994年に書かれ、モルクの依頼でチェロ用に書き直された。このヴァージョンで2002年のグロマイヤー賞を受賞している。作曲のきっかけがアウシュヴィッツを訪れた体験、というといささかベタな印象を持たれてしまうかもしれないが、「血に染まった土地=カラード・フィールド」からもたらされた作曲者の率直で熱い想いが、磨き抜かれた精緻な技法によってクールにコントロールされ、現代の音楽としては類まれな感動を呼び起こす。この悲しみと慟哭は嘘じゃない。20世紀末に書かれた管弦楽作品として、コリリャーノの交響曲第1番と並ぶ傑作だと思う。

《ムジカ・チェレスティス(天体の音楽)》(4)は弦楽四重奏第1番(1990)の第2楽章を弦楽オーケストラ用に独立させたもの。新聞評などではバーバーの《アダージョ》になぞらえられたりしているようだが、むしろヴォーン=ウィリアムズの《タリス幻想曲》と通ずるものがある。
《エア》(5)も本来はヴァイオリンの曲で、冒頭から「ロマン派?」と錯覚させられるほどに美しいノスタルジーが満ちている。

いずれもチェロがオリジナルではないが、作曲家自身の編曲と、何より共感に満ちたとびきりの演奏によって、説得力はむしろ増している。
この時代に生き、この曲を、この演奏を聴いて感動できる。幸せだと思う。

Aaron Jay Kernis

1960年生まれのアメリカの作曲家。数年前ニューヨーク・タイムズの演奏会評で彼の音楽が「現代の音楽としては最も聴衆から支持されている」と書かれているのを見て初めて存在を認識し、ディスクを幾つか聴いて感服した。ヴァイオリンとオーケストラのためのAir(1996)が美しい。イングリッシュ・ホルンまたはチェロとオーケストラによるColored Field (1994)は強い表出力で聞き手を圧倒する。現代的な響きと、懐かしい歌と、精緻な作曲技法が同居している。
この作曲家と同じ時代に生きていられて良かった、なんて思ったのはこの人くらい。
2000年のPMFでは日本に来てたんだそうな。その頃から知ってたら、たとえ札幌でも聴きに行ったのに。

作品は着実に発表されているようだが、なかなか新しい録音に出会えない。まだしばらくはモルクの演奏するColored FieldのCDを大事に聴き続けることになりそうだ。

まとまった情報は出版社所属事務所のサイトに。

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